国境を越えて“使える”デジタルIDへ。APDIが描くアジア太平洋のアジア太平洋地域の新たなデジタルトラストの姿
- デジタルアイデンティティ分野の最新トレンドをキャッチアップしたい方
- デジタルID・デジタル資格情報の社会実装やユースケースに関心のある方
- 国や組織を越えたデジタルトラストの仕組みづくりに関心のある方
みなさんこんにちは。
DNP INNOVATION PORT運営メンバーの川俣です。
2026年9月、スイス・ジュネーブで「Global Digital Collaboration Conference 2026(GDC 2026)」が開催されました。
今回、DNP Asia Pacific Pte. Ltd.の青木拓海氏が、APDI(Asia-Pacific Digital Identity Consortium)の取り組みについて登壇。アジア太平洋地域におけるデジタル資格情報の越境利用と相互運用をテーマに、旅行、教育、運転免許などのユースケースを交えながら、社会実装に向けた課題と今後の方向性を紹介しました。
講演を通じて示されたのは、デジタルIDの社会実装において重要なのは、単に「技術的に発行・提示・検証できること」ではなく、相手から実際に受け入れられることだという点です。
では、国や組織を越えてデジタル資格情報を受け入れてもらうためには、何が必要なのでしょうか。
デジタルIDの次の課題は、「受け入れられること」
デジタルアイデンティティの分野では、デジタルクレデンシャルを発行し、スマートフォンなどで提示し、相手側で検証するための技術が発展しています。
しかし青木氏は、技術的な相互運用性だけでは、デジタルIDの社会実装は成立しないと説明しました。
たとえ資格情報が正しい形式で発行され、電子署名を検証できたとしても、それだけでホテルや大学、企業、行政機関が「この資格情報を受け入れよう」と判断できるわけではありません。
そのために必要になるのが、Trust(信頼)の設計です。
講演では、大きく3つのポイントが示されました。
1. 誰を信頼するのか
まず必要なのは、その資格情報を発行した組織が信頼できるのかを確認できることです。
世界中の大学や政府機関、資格発行者について、サービス提供者が一つひとつ調査することは現実的ではありません。
その組織に資格情報を発行する権限があるのか、その権限はいまも有効なのか。こうした情報を発見・確認できる仕組みが必要になります。
2. その資格情報は何を意味するのか
二つ目は、資格情報の意味を共通して理解できることです。
たとえば同じ「卒業資格」や「技能証明」であっても、国や教育機関によって学習レベルや評価方法、品質保証の仕組みは異なります。
データ形式が同じであることだけではなく、その情報が何を証明しているのかを理解できなければ、受け入れの判断にはつながりません。
3. 問題が起きたとき、誰が責任を負うのか
そして三つ目が、責任の所在です。
資格情報が後から失効していたことが分かった場合や、誤った情報が含まれていた場合、誰がそのリスクを負うのでしょうか。
実際のサービスで利用するためには、技術仕様だけではなく、運用ルールや契約、監査、責任分界なども含めて設計する必要があります。
つまり、
「検証できる」だけではなく、「信頼して受け入れられる」状態をつくること。
これが、デジタルIDを社会実装していくうえでの次の課題です。
旅行分野で広がる、デジタル資格情報の越境利用
この「受け入れられること」の重要性が分かりやすく表れる分野の一つが、旅行です。
講演では、ホテルチェックイン、税還付、空港・税関でのFast Trackなど、旅行者が国境を越えて移動する際のユースケースが紹介されました。
たとえばホテルチェックインでは、旅行者が持つデジタル資格情報から必要な本人情報を提示できれば、宿泊者情報の入力や転記を効率化でき、データ品質の向上も期待できます。
一方で、デジタル資格情報を提示できるだけでは、実際のホテル業務にそのまま組み込めるわけではありません。
既存のホテルでは、カードキーやチェックイン端末などの設備がすでに広く使われていますが、チェックインに使用したスマートフォンをそのままルームキーとして利用しようとする場合、客室側の設備も対応させる必要があります。
そのため講演では、すべてを一度に置き換えるのではなく、まずはキオスク端末などを介してデジタル資格情報を利用する、段階的な移行が現実的なアプローチとして示されました。
また、税還付や空港・税関でのFast Trackのような場面では、民間サービスだけでなく、行政などとの接続も必要になります。
つまり旅行分野でも、重要なのは、
その資格情報を誰が発行し、どこまで信頼でき、どのルールのもとで受け入れるのか。
こうしたTrustまで含めて設計して初めて、旅行者が国境を越えてデジタル資格情報を利用できるようになります。
教育資格が国境を越えて「受け入れられる」ものにする
もう一つの事例として紹介されたのが、教育資格です。卒業証明書や成績証明書、専門資格などは、デジタルクレデンシャルの代表的な活用領域です。
さらに今後は、大学の学位だけでなく、短期プログラムの修了履歴や専門的なスキルなどを示す「Micro-Credential(マイクロクレデンシャル)」の重要性も高まっていくと考えられます。
一方で、資格情報をデジタル化しただけでは、国境を越えた利用は実現しません。
たとえば、日本の企業が海外から来た人材のデジタル資格情報を受け取ったとしても、その発行元である海外の大学が信頼できる教育機関なのかを、企業自身が確認するのは困難です。
そこで講演では、各国・地域にすでに存在するacademic federations※1を活用する考え方が紹介されました。
それぞれの地域には、大学や研究機関などを結ぶ既存の信頼ネットワークがあります。
それらを新たな一つの仕組みに置き換えるのではなく、各地域のFederation同士をさらに接続する、いわば「Federation of Federations」のような構造をつくることで、国境を越えた資格情報の信頼につなげていくという考え方です。
ここでも重要なのは、新しい技術ですべてを置き換えることではありません。
すでに存在するTrustを生かし、それらをつなぐこと。
旅行と教育という異なるユースケースに共通しているのは、「資格情報をデジタル化すること」そのものではなく、異なる国や組織の間で、どう信頼をつなぐかという課題なのです。
※1 大学や研究機関などが、共通のルールや信頼関係のもとで相互につながる連携の枠組み。
「統一」ではなく「接続」。APDIが目指すアジア太平洋のデジタルトラスト
アジア太平洋地域には、国や地域ごとに異なる法律、行政制度、言語、そしてTrust Frameworkがあります。
そのため、一つの制度や共通基盤ですべてを統一することは容易ではありません。
そこでAPDIが目指しているのは、各国がすでに持つTrust ListやTrust Framework※2を維持したまま、それらを相互に発見・参照できるようにすることです。
青木氏の講演では、各国の政府や権限を持つ機関が自国のTrust Listを管理し、その情報をほかの国からも確認できる仕組みの考え方が紹介されました。
つまり、目指しているのはアジア全体を一つのルールで統一することではありません。
それぞれの国が持つTrustを尊重しながら、それらをつないでいくこと。
そして、二国間の「点と点」の接続から、複数の国やサービスが参加できるネットワークへ発展させていくことです。
講演では、その先にある将来像として、アジア太平洋地域でも「Schengen※3のような移動・利用体験」を実現できないかというイメージも紹介されました。
もちろん、欧州とアジア太平洋地域では制度や背景が異なります。
ここで目指しているのは、Schengenそのものを再現することではなく、国境を越えるたびに同じ情報を入力したり、同じ証明を繰り返したりすることなく、人々がよりスムーズに移動し、サービスを利用できる世界です。
※2 信頼できる組織やサービスを確認するためのリストや、組織間でデジタルIDを相互利用する際の信頼の基準・ルールを定めた枠組み。
※3 欧州の複数国が参加し、原則として参加国間の国境審査なしで人が移動できる仕組み。
おわりに
今回のGDC 2026での青木氏の講演から見えてきたのは、デジタルIDの社会実装が新しいフェーズに入りつつあるということです。
これまでは「デジタルで資格情報を発行・検証できるか」が大きなテーマでした。
これから重要になるのは、
- 誰を信頼するのか
- その資格情報は何を意味するのか
- 問題が起きたとき、誰が責任を負うのか
こうしたTrustを設計し、相手から実際に「受け入れられる」デジタルIDにしていくことです。
DNPはAPDIの活動を通じて、各国・地域がすでに持つTrustを生かしながら、企業や政府、さまざまなパートナーとの連携を進めています。
一つひとつの具体的なユースケースから信頼をつなぎ、その接続を国やサービスを越えて広げていく。
その先に、デジタルアイデンティティを安心して国境を越えて利用できる、アジア太平洋地域の新たなデジタルトラストの姿が見えてきます。
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